「LJL」キャスター・katsudionが語る『リーグ・オブ・レジェンド』への想い、「シュレリア」への感謝 (1/3)
『リーグ・オブ・レジェンド』(LoL)のプロリーグ「LJL」には、6名のキャスターがいる。「LJL」創設期からキャスターを務めているeyes氏とRevol氏、大学生リーグ「League U」のキャスターからステップアップしてきたイェーガー氏とリクルート氏、そして、プロ選手、コーチ、キャスターへと転身してきたLillebelt氏と熱い実況でおなじみのkatsudion(カツディオン)氏だ。
katsudion氏は、まだ『LoL』の日本サーバーがない時代から、『LoL』を日本に紹介しファンコミュニティを盛り上げてきた立役者のひとりでもある。特に『LoL』のファンタジーとしての世界観やストーリーを伝えることにかけては、日本で彼の右に出るものはいないだろう。
今回は、そんなkatsudionという人物がキャスターになるまでの道のり、日本のファンコミュニティ設立当時の話、“恩人”とのエピソード、「LJL」の発展とeスポーツ人気前後の『LoL』シーンの話など、あふれんばかりの『LoL』愛についてじっくりうかがった。
──katsudionさんのSNSや発言を聞きながらいつも、コミュニティやファンに一番近い距離にいる方だなぁと思っていました。まずはキャスターになったきっかけから聞かせてください。
katsudion:パソコンゲームは高校生の時からやっていて、本格的に仲間と一緒に遊んでいたのは『チームフォートレス』というFPSゲームでした。友達と大会とかにも出ていたんですが、ある時カジュアル向けに競技性が変わって、ガチでやる感じじゃなくなったんですね。
そのあと、チームの友達が誘ってくれたのが『LoL』でした。忘れもしない2010年6月頃のことで、新チャンピオンが「ガレン」でしたね。
当時はNA(北米)サーバーだったんですけど、ものすごい偶然で、たまたま一緒に遊んでいたメンバーの中にライアットの方がいたんですよ。「シュレリア」って方なんですけど……。
──あのアイテムの名前にもなっている「シュレリア」さんですか?
katsudion:はい、僕の『LoL』はシュレリアのラムスに「こっちに来て!」って言われたら「はい!」ってついていく、そこから始まったんです。
──『LoL』のコアユーザーにはおなじみですけど、アイテム名って開発者の名前から来ているものが多いんですよね。
katsudion:そうですね、「シュレリア(の戦歌)」とか、「ランデュイン(オーメン)」、「グインソー(ダスクブレード)」とかもそうです。
チャンピオンの名前もライアット社員から来ていて、エズリアル、ライズ、トリンダメアなど、その名前で業務されています。エズリアルは「LJL」ができたときに日本に来ていましたね。
シュレリアにはその後も『LoL』を教えてもらったんですが、彼女から「日本で『LoL』のコミュニティを作りたいんだよね」っていう話があって。それで、現地の英語情報を日本で伝える「Runeterra.jp」というサイトの運営に参加したりしていました。あとは、日本でのコミュニティ大会を開くお手伝いなどもしていましたね。
──もう「ライアットの中の人」的な感じですね。
katsudion:あくまでボランティアでしたけど、そんな感じでしたね。サイト自体はもう影も形もなくなっちゃいましたけど。
一番思い出深いのは、今だと考えられないんですけど、開発チームしか入れないサーバーの中で、シュレリアがハロウィンのドッキリとして、一緒に遊んでいた僕らの名前をつけたアイテムを作ってくれたんですよ。
僕のアイテムは「カツディオン・グルーガン」。1Gで買えて、相手に使うと50%のスローが無限にかかるんです(笑)。
──凶悪すぎます(笑)。
katsudion:僕らは使うことはできなかったんですけど、スクショで見せてくれました。懐かしいですねー、「キャンディコーン」が今のポーションで、「レッドキャンディ」「ブルーキャンディ」が赤エリクサー、青エリクサーでした。
そんな『LoL』内でのシュレリアとの出会いのおかげで、『LoL』の世界観やストーリーから大好きになったんです。
──日本の『LoL』コミュニティがなかった時代から関わっていらしたわけですが、そこからキャスターとして本格的に『LoL』に関わるまでのいきさつは?
katsudion:当時は岡山県に住んでいたんですが、JCGのmatsujunさん(代表の松本順一氏)が開いていた「Tokyo Game Night」っていうゲームイベントがありまして。それが僕の初めてのオフラインイベント経験で、すごく楽しかったので、一度参加してからかなりの頻度で参加していたんです。
で、当時からゲームをせずに、イベント中に人前に出てしゃべっていたんですよね。実況の真似事のようなことをやっていて。思えばそこが実況を始めたルーツかなと思います。
──イベントの運営側から声をかけられたってことですか?
katsudion:いえ、ネットで放送しているときに自由に前に出てしゃべっていいよってことだったので、『LoL』の放送の時に「『LoL』わかる人~」と言われて自分から出ていった感じです。この当時から『LoL』クイズとかを出してましたね。
そんなふうにいろいろ『LoL』に関わっていた2014年に、「LJL」のファイナルが東京ゲームショウのロジクールブースで開催されて、「日本にライアットが来ます!」という発表がされました。
その頃は「Game 4 Broke」という『LoL』の情報サイトのヘッダー作成とかのお手伝いもしていて、このサイトを一緒にやっていたLotanさんと一緒に、会場でライアットの人から名刺をいただいたんです。
その時に、「『LoL』が日本に来て『LoL』が日本で流行るためにできることがあるんだったら、仕事やめようかぁ」って思ったんですよね(笑)。
──なんかゆるいですけど、多分そこまでの経緯もあっての決断だったんですね。
katsudion:そうですね。そこから「東京ゲームナイト」つながりでmatsujunさんに相談して、2015年の秋頃に上京して、JCGで働き始めました。
『LoL』が流行るためになにかやりたかったので、JCGの『LoL』部門を担当して、大会の運営・作成・台本・選手管理・配信管理となんでもやっていました。
katsudion:ただ、なんでもやりたすぎて無理しがちだったのをLotanさんたちに心配されて、「やることをひとつに絞った方がいいんじゃない?」と言われたんですよ。
そこであらためて、自分は『LoL』のために何がしたいんだろう? と考えた時に、『LoL』の大会の配信を見つつ、「自分だったらこういうところをしゃべりたい」「もっとこういうところにふれていきたい」という気持ちがあることに気づいたんです。
2014年~2015年頃は、「LJL」ではほぼeyesさんとRevolさんだけで回していて、自分も実況が好きだったことと、他にやりたい人がいないのなら手を上げたい、ということで、eyesさんに相談しました。
──eyesさんとは以前からお知り合いだったんですか?
katsudion:はい、オンラインで交流があって。当時はただの友達だったので「アイちゃん」って呼んでました(笑)。eyesさんが初めて上京した時も一緒の新幹線に乗ってたんですよ。この時の岡山駅の新幹線乗り場で初めて会ったんですけどね。
──実際に初めて仕事として実況されたのはいつ頃ですか?
katsudion:当時JCGでやっていた「Intel Extreme Masters」(IEM)っていうインテル主催の海外大会です。その日本語実況放送をやらせていただきました。きっかけは他の方の実況を聞いていて、自分なりにもっと試合の内容や選手について深く語りたいと思ったため。「やる人がいないんだったら俺にやらせてほしい!」と豪語しちゃって。
会社からは決勝戦だけでいいと言われたんですけど、「決勝戦に行くまでの道筋があって、チームの戦いがあった上での結晶だから意味があるんだ!」と思ったので、時差もありましたが1日12時間、3日間の放送を、許可を取った上で全部ひとりでやりました。自分で台本を書いて、放送の告知なども作って、配信も自分の家で機材を持ち込んで……。
──それはしんどそうですね……。
katsudion:いままでで一番しんどい配信でしたね。当時は専属キャスターではないですし、時差を調整するために前の日からお休みをいただいて。深夜に始まって朝終わるので、寝ないように家でずっと立って実況していました。2日目がめちゃめちゃ眠くてしんどかったです。
そういう経験もあって、ゲームの知識も持っているし、eyesさん、Revolさんとも知り合って試合の見方もわかってきたので、キャスターに絞る方向でeyesさんに相談しました。もつ鍋屋で泣きながら話した記憶があります。
──泣きながら?
katsudion:今のままだとほかの仕事もやらなきゃいけないし、実況に絞ろうと思ってもJCGに入社して半年しか経っていなかったのでできないかもしれない。でも、実況に対する本気の思いを伝えて、結果的にeyesさんの弟子として実況を学び始めました。
matsujunさんにはご迷惑をかけてしまいましたが、あの時僕の今後について相談した上で、温かく送り出してくれたことには、今でも本当に感謝しています。
katsudion氏は、まだ『LoL』の日本サーバーがない時代から、『LoL』を日本に紹介しファンコミュニティを盛り上げてきた立役者のひとりでもある。特に『LoL』のファンタジーとしての世界観やストーリーを伝えることにかけては、日本で彼の右に出るものはいないだろう。
今回は、そんなkatsudionという人物がキャスターになるまでの道のり、日本のファンコミュニティ設立当時の話、“恩人”とのエピソード、「LJL」の発展とeスポーツ人気前後の『LoL』シーンの話など、あふれんばかりの『LoL』愛についてじっくりうかがった。
ライアッター「シュレリア」との出会い
──katsudionさんのSNSや発言を聞きながらいつも、コミュニティやファンに一番近い距離にいる方だなぁと思っていました。まずはキャスターになったきっかけから聞かせてください。
katsudion:パソコンゲームは高校生の時からやっていて、本格的に仲間と一緒に遊んでいたのは『チームフォートレス』というFPSゲームでした。友達と大会とかにも出ていたんですが、ある時カジュアル向けに競技性が変わって、ガチでやる感じじゃなくなったんですね。
そのあと、チームの友達が誘ってくれたのが『LoL』でした。忘れもしない2010年6月頃のことで、新チャンピオンが「ガレン」でしたね。
当時はNA(北米)サーバーだったんですけど、ものすごい偶然で、たまたま一緒に遊んでいたメンバーの中にライアットの方がいたんですよ。「シュレリア」って方なんですけど……。
──あのアイテムの名前にもなっている「シュレリア」さんですか?
katsudion:はい、僕の『LoL』はシュレリアのラムスに「こっちに来て!」って言われたら「はい!」ってついていく、そこから始まったんです。
──『LoL』のコアユーザーにはおなじみですけど、アイテム名って開発者の名前から来ているものが多いんですよね。
katsudion:そうですね、「シュレリア(の戦歌)」とか、「ランデュイン(オーメン)」、「グインソー(ダスクブレード)」とかもそうです。
チャンピオンの名前もライアット社員から来ていて、エズリアル、ライズ、トリンダメアなど、その名前で業務されています。エズリアルは「LJL」ができたときに日本に来ていましたね。
シュレリアにはその後も『LoL』を教えてもらったんですが、彼女から「日本で『LoL』のコミュニティを作りたいんだよね」っていう話があって。それで、現地の英語情報を日本で伝える「Runeterra.jp」というサイトの運営に参加したりしていました。あとは、日本でのコミュニティ大会を開くお手伝いなどもしていましたね。
──もう「ライアットの中の人」的な感じですね。
katsudion:あくまでボランティアでしたけど、そんな感じでしたね。サイト自体はもう影も形もなくなっちゃいましたけど。
一番思い出深いのは、今だと考えられないんですけど、開発チームしか入れないサーバーの中で、シュレリアがハロウィンのドッキリとして、一緒に遊んでいた僕らの名前をつけたアイテムを作ってくれたんですよ。
僕のアイテムは「カツディオン・グルーガン」。1Gで買えて、相手に使うと50%のスローが無限にかかるんです(笑)。
NAサーバーでは「katsudion」でした。
— katsudion (@katsudion) March 2, 2016
日本サーバーでも「katsudion」です。 pic.twitter.com/bR1Lj5EB9o
──凶悪すぎます(笑)。
katsudion:僕らは使うことはできなかったんですけど、スクショで見せてくれました。懐かしいですねー、「キャンディコーン」が今のポーションで、「レッドキャンディ」「ブルーキャンディ」が赤エリクサー、青エリクサーでした。
そんな『LoL』内でのシュレリアとの出会いのおかげで、『LoL』の世界観やストーリーから大好きになったんです。
ライアットの日本上陸を機に転職
──日本の『LoL』コミュニティがなかった時代から関わっていらしたわけですが、そこからキャスターとして本格的に『LoL』に関わるまでのいきさつは?
katsudion:当時は岡山県に住んでいたんですが、JCGのmatsujunさん(代表の松本順一氏)が開いていた「Tokyo Game Night」っていうゲームイベントがありまして。それが僕の初めてのオフラインイベント経験で、すごく楽しかったので、一度参加してからかなりの頻度で参加していたんです。
で、当時からゲームをせずに、イベント中に人前に出てしゃべっていたんですよね。実況の真似事のようなことをやっていて。思えばそこが実況を始めたルーツかなと思います。
──イベントの運営側から声をかけられたってことですか?
katsudion:いえ、ネットで放送しているときに自由に前に出てしゃべっていいよってことだったので、『LoL』の放送の時に「『LoL』わかる人~」と言われて自分から出ていった感じです。この当時から『LoL』クイズとかを出してましたね。
そんなふうにいろいろ『LoL』に関わっていた2014年に、「LJL」のファイナルが東京ゲームショウのロジクールブースで開催されて、「日本にライアットが来ます!」という発表がされました。
その頃は「Game 4 Broke」という『LoL』の情報サイトのヘッダー作成とかのお手伝いもしていて、このサイトを一緒にやっていたLotanさんと一緒に、会場でライアットの人から名刺をいただいたんです。
その時に、「『LoL』が日本に来て『LoL』が日本で流行るためにできることがあるんだったら、仕事やめようかぁ」って思ったんですよね(笑)。
──なんかゆるいですけど、多分そこまでの経緯もあっての決断だったんですね。
katsudion:そうですね。そこから「東京ゲームナイト」つながりでmatsujunさんに相談して、2015年の秋頃に上京して、JCGで働き始めました。
『LoL』が流行るためになにかやりたかったので、JCGの『LoL』部門を担当して、大会の運営・作成・台本・選手管理・配信管理となんでもやっていました。
初実況は3日連続の海外大会「Intel Extreme Masters」
katsudion:ただ、なんでもやりたすぎて無理しがちだったのをLotanさんたちに心配されて、「やることをひとつに絞った方がいいんじゃない?」と言われたんですよ。
そこであらためて、自分は『LoL』のために何がしたいんだろう? と考えた時に、『LoL』の大会の配信を見つつ、「自分だったらこういうところをしゃべりたい」「もっとこういうところにふれていきたい」という気持ちがあることに気づいたんです。
2014年~2015年頃は、「LJL」ではほぼeyesさんとRevolさんだけで回していて、自分も実況が好きだったことと、他にやりたい人がいないのなら手を上げたい、ということで、eyesさんに相談しました。
──eyesさんとは以前からお知り合いだったんですか?
katsudion:はい、オンラインで交流があって。当時はただの友達だったので「アイちゃん」って呼んでました(笑)。eyesさんが初めて上京した時も一緒の新幹線に乗ってたんですよ。この時の岡山駅の新幹線乗り場で初めて会ったんですけどね。
──実際に初めて仕事として実況されたのはいつ頃ですか?
katsudion:当時JCGでやっていた「Intel Extreme Masters」(IEM)っていうインテル主催の海外大会です。その日本語実況放送をやらせていただきました。きっかけは他の方の実況を聞いていて、自分なりにもっと試合の内容や選手について深く語りたいと思ったため。「やる人がいないんだったら俺にやらせてほしい!」と豪語しちゃって。
会社からは決勝戦だけでいいと言われたんですけど、「決勝戦に行くまでの道筋があって、チームの戦いがあった上での結晶だから意味があるんだ!」と思ったので、時差もありましたが1日12時間、3日間の放送を、許可を取った上で全部ひとりでやりました。自分で台本を書いて、放送の告知なども作って、配信も自分の家で機材を持ち込んで……。
──それはしんどそうですね……。
katsudion:いままでで一番しんどい配信でしたね。当時は専属キャスターではないですし、時差を調整するために前の日からお休みをいただいて。深夜に始まって朝終わるので、寝ないように家でずっと立って実況していました。2日目がめちゃめちゃ眠くてしんどかったです。
そういう経験もあって、ゲームの知識も持っているし、eyesさん、Revolさんとも知り合って試合の見方もわかってきたので、キャスターに絞る方向でeyesさんに相談しました。もつ鍋屋で泣きながら話した記憶があります。
──泣きながら?
katsudion:今のままだとほかの仕事もやらなきゃいけないし、実況に絞ろうと思ってもJCGに入社して半年しか経っていなかったのでできないかもしれない。でも、実況に対する本気の思いを伝えて、結果的にeyesさんの弟子として実況を学び始めました。
matsujunさんにはご迷惑をかけてしまいましたが、あの時僕の今後について相談した上で、温かく送り出してくれたことには、今でも本当に感謝しています。
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